2007/06/12

いつか未来の自分が振り返るときの手がかりになることを期待して、簡単な日記をつけてみる。
3日坊主に終わるかもしれないけど。

■仕事

・英語翻訳の「品質」をチェックするための客観的な評価基準ってないものか。
・あんまり人としゃべってないなぁ・・・。

■家事

・柔軟剤が切れたので「ハミング」を購入。
・空焚きしすぎでホーローのポットがついにご臨終。
 お気に入りかつ生活の潤い品なので同じものの色違いを再購入。
 『月兎スリムポット0.7L』
・洗濯。
・明日は燃えるゴミの日。

■運動

・ナシ。

■読書

・『話すチカラをつくる本』山田ズーニー著:三笠書房
 コミュニケーションの要諦が原則モデルから実践的なコツまで、最初から最後までエッセンスのオンパレード。しかも、読者への配慮が随所に散りばめられて、スイスイと読める。いい意味で思考の流れを支配される心地よさがある。
 「自分バイブル」になりそうな予感。

 思考が止まってしまうとき、大きな問いをまるごと相手にしていることが多いんです。向かう「問い」が大きすぎると、考えること自体が、億劫になったり、イヤになったりします。
 そうではなく、考えるためには「答え」ではなく、「問い」を探すのです。(p.49)

 自分は過去から現在まで、どのような経験をしてきて、いま何を想い、どんな長所を持ち、未来に向けてどのような志を持っているか、という、自分の過去→現在→未来のつながりの中で、自分の主旋律をはっきりと示すこと。(p.121)

■勉強

・「自尊心/自己肯定」について、ネット巡回。記事の草稿を書き中。

■ニュース

・都知事選落選の外山恒一容疑者を逮捕
あの演説が、今度は裁判所で行われるのかも?
主張内容には同意しかねるが、「プレゼンテーター」として期待してしまう。

■ことば

「たいしたことない自分が、どうしたら勝てるのだろう」
と、そこまで後退した場所から問題を立てたときに、
何をすればいいかが見えてくる。
糸井重里

アクセルはブレーキを外してから

「自分の中でアクセルを踏むのだけれど、同時にブレーキもかかっていて、エンジンが焼き切れそうな、そんな感じがあります」

長いうつ状態が続き「このままではイカン」と追い詰められ、
思い詰めて初めてカウンセリングを受けたとき、そうやって話を始めた。


当時は、ゼロから立ち上げてきた仕事が、試験的な段階を過ぎて本格的に通常業務として展開していこうという時期だった。業務時間外の有志による勉強会からスタートして2年、ようやくここまでこぎつけた、というところだった。

実現したいものがある。多少の実績も作った。必要な予算も人も確保した。応援してくれる仲間もいる。ベースの方向性も明文化した。計画も作った。学ぶべきものも見えいている。

裁量が増えることでの重圧感もあるが、失敗したって経験は残る。先を心配してもしょうがない。いつだって、できるのは自分のできることをやるってことだ。

・・・そう頭でわかっていても、何か息苦しい。
エネルギーが目の前の課題に向かわず、どこからか聞こえてくる声を振り払えない。


「お前は所詮口ばっかりだよ」
「こんなこともできないで、何ほざいてんだよ」
「みんな、お前には失望してんだよ」
「価値ないよ、お前」
「そんなチャレンジして失敗したら、自分が能力ないってわかっちゃうよ?」

大学時代から書き溜めた、「励まされる、テンションの上がる」書き抜きを読む。好きな音楽を聞く。
それでもダメなら、振り払うために、受動的なメディアで頭を麻痺させる。TV、映画、漫画、ゲーム。逃避して、声をやり過ごす。
でも、それはどこまでも落ちてゆく自己否定スパイラルの入り口。
ムダな時間を浪費したこと、逃避することでしか自分を保てない本質的な自分の弱さを責める。自分を責めてムダな時間とエネルギーを費やすこと自体に、また落ち込む。


それは、それまで何度も繰り返してきたパターン。
自己否定の泥沼にはまる時もあるが、そんな時はなんとかやり過ごして、
頭が「正常に働く」時に集中的にいろんなものを片付ける。


でも、その時は違った。ついに焼き切れた。
自宅でしばらくの静養。
カウンセリングと、精神科に通う日々。


当初は、もう何もかもどーでもよくなっていた。
なんとかだましだましやってきたのに、何度も「この気づきがあればいける!」と思っては、また同じループに入りこんで、「まだできることはある」と立て直して、その繰り返しに疲弊して、「もう疲れた」というのが実感だった。

ともかく、寝てばかりいた。寝ている間は、何も考えなくて済む。
努力するということを放棄した。とにかく「自分がラク」なことに集中した。
手塩にかけたプロジェクトは人に渡った。通常業務として軌道に乗ったようだが、当初の構想のゴールからは小さくまとまった形に落ち着き、何やら悔しくて風呂で一人泣いた。
長く続いていた遠距離恋愛も壊れた。
それから、仕事はなるべく手抜き。
おっくうさが先立ち、交友関係も絞られた。


いまだに、自分の価値を下げてくる「声」、うるせー黙ってろ、と思っても消えない。
自分が選びたいあり方はこんなんじゃない。


そうして、ブログの世界を巡っているうちに知った「自尊心(Self-esteem)」というもの。

「自尊」という心は、自己の現在の姿だけでなく、自己のマイナス面さえも受け入れ、そして自己が存在することそのものを尊重、つまり「成長する未来」という可能性をも視野に入れるものだと、わたしは思う。
『自尊心考』S嬢のPC日記

ふとしたことで、「自己否定ループ」のスイッチが入ってしまう僕は、それだけ生きる力が弱いとも言えると思う。でも、ここから進むしかない。
この「自己否定ループ」を、違ったものに、建設的な自己との対話に切り替えていくこと。
それを積み重ねて、自尊心を取り戻していくこと。それが今の課題。

「自己肯定感」を、問題に気づいた青年期頃から取り戻すのは、非常に大変です。
10年以上も自分を否定し続けてきたのですから。
でも、必ず取り戻せると、私は思っています。
『発達心理学』

取り戻し方は、かかれていない。マニュアルはない。
毎日の具体的な経験を前に、どんな選択をし、そこからどんな意味を汲み取っていくのか。
その積み重ねの中から、少しずつ醸成していくしかない。

根っこは『自分の足でたつ』ということ

ののかさんより、トラックバックを受信。
『それは難しいことかもしれないけれど 』明けぬ夜の夢


※以前のやりとり
『他人の荷物は背負えない』明けぬ夜の夢
『気持ちを吐き出す。でも荷物は自分で背負う・・・ってないもんか』

日常の生活で関係を持つ人々にはどう話していくのか、どんな線引きで話をしようか。また、相手の話をどういう態度と立ち位置で聞いていけばいいか

という私の問いに対して、

お互いの生活に負担にならない

という一つの基準をもらい、「あ、なるほど」って思う。

過去記事の中に、既に答えはあるんじゃないかと思ったのでした。

とのことで、ふむ?と宿題をもらった気分で自分の過去記事を読んでみる。我ながら「おぉ、こいつ感傷的になってやがる」思いつつ、「これかな?」という部分をピックアップ。

まず自分の足で立つこと。
不安の中で必要なのは、もたれかかれる場所を探すんではなく、立ち戻る場所を自分の中に持つこと。
『涙のふるさと』

きっと、↑このことの中から人とのコミュニケーションの立ち位置もおのずとできてくる、ってことを言ってくれているのだろう、と理解。自分の言葉で言い換えてみたり、思ったことをメモりながらののかさんの記事を何度も反芻。

■自分の足で立ち続けることが人と適切な距離を保つことにつながる

その方は「自分の足で立つ」ということを分かっている方だったので、私はその方を巻き込まずにすんだのではないか、と思っています。

そういえば、自分がよく相談していた友人もそうだったんだなぁ、と納得。
自分の足でたつ、という意識を持つことができれば、そこから逸脱しそうになることを察知して一定の距離を保つ、「過剰に巻き込まない、巻き込まれない技術」が生まれてくる。

■「ダメなときはダメ」と言える信頼関係

お互いの生活に負担にならないというようなルール。ダメなときはダメと、お互いに言える関係。

人の話を聞いて共感していくことは、相手の感情を受け止めながらも、相手の荷物はあなたのものだよ、という立場は崩さない、という微妙なバランスの上に成り立つ。
そのバランスを保っていくことは、相手の心の動きも、自分の心の動きもモニターする必要があり、集中力がいること。それができない状態なら、「今は」余裕がないということを拒絶感を感じられることなく伝えられるということが必要。

■答えは渡せない。でもそれ以外に渡せるものだってある。

 ではアドバイスは全く意味がないのかというと、そうではなくて、例えば情報を渡すということ。

私が今までしてもらったアドバイスの中で役に立ったのは、とても具体的なこと。例えば食事をとっていなかったら、簡単に作れて食べやすいものを教えてくれたとか。生活が不規則になっていたら、「とにかく起きたら窓を開けてみて」というようなことだったと思う。それは悩みに対する直接的なアドバイスではないのだけれど、気持ちを立て直すには、とても役に立ったと思う。

「答え」を言うことはできなくても(答えは自分で気がついていくしかない)、そこにつながる情報を渡したり、ともかく気持ちを立て直すきっかけを渡すということはできるということ。

どん底の時は度量のある人に頼る

ただ、悩みの真っ只中にいるときは、判断力も落ちてしまうので難しいなとは思うんですけれどね。だからこそ、ある程度の距離を保って、ダメなことはダメと言ってくれた人の存在て有難いなあと思います。

私も、自己否定のどん底の時にはあらゆる考えが歪んでいってそのこともわからなくなってくるので、それに巻き込まれずに話にのってくれる友人に何度も助けられていた。
あとは、「自分が判断力が落ちてる」ってことを自覚できて、その時は行動を控えて気持ちの建て直しに意識を向けることができればいいのかも。



一連のやり取りをする中で、考えはあちこちに発散して関連のないことは別にメモに取っていたのですがその中で改めて感じたこと。
『自分の荷物は自分で』『自分の足で立つ』というのは、「自己肯定」「自尊心を持つ」ということで、それをどう自己調達できるようにしていくか。さらにそこを根っことして、その先の具体的な考え方や行動の基準を作っていくことが、今の自分の大きな課題なんだと実感し、まずは一度、自尊心について整理してみようと思いました。まる。


#まとまらない読書レポートになってしまいました。

気持ちを吐き出す。でも荷物は自分で背負う・・・ってないもんか

あちこちブログを巡っていて辿り着いたエントリーで、
「荷物を背負う」という感覚に、ピピっときた。

 当事者同士で気持ちを吐き出す、というのは悪いことではないんだと思う。でも、他人に自分の荷物を背負わせちゃいけない。そして自分も他人の荷物を背負っちゃいけない。自分の荷物は自分で背負うしかない。
『他人の荷物は背負えない/明けぬ夜の夢』


「人に話すことで、感情を消化して自分を取り巻く状況を整理して見るってことのお手伝いをしてもらう」
ということとと、「自分の荷物は自分で背負うということ」、2つの境界は、どこにあるんだろう?
とよく考えるし、いまだによく分からない。


2年ほど前にひどいうつ状態に陥ったことがある。
様子がおかしいと感じた周囲の人のうち、何人かが声をかけて話にのってくれた。それは、かつて自分を見失うっていう経験をしたことのある人たちで、「話すことでラクになることがある」っていうことを経験的に知っていたのだろうと思う。


だけれども、話しだすと自分の中にある葛藤まで話すことになり、話は今おかれている状況のことから、
だんだんと自分の性格のことや過去につらかったことや、ともかく「自分でイヤだと思う自分のこと」全般に広がっていった。


そんな話をしていると、相手も「自分も昔こんなことがあって・・・」という話をしてくれたりしていた。


そのうちに、僕が長いうつ状態の後に「躁」な状態にはいり、夜に眠れなくなり、体は疲れているにも関わらず頭が冴えて様々な思考が止まらなくなり、夜中の2時3時に起きだして頭に浮かぶものをひたすらに朝まで文章を打ち続ける、という生活を続けていた。


そうなると、相談に乗ってくれる人にものすごい長文のメールを送りつけていた。
内容は、自分のことのときもあったし、勝手にその人の抱える問題の解決策を考えて、その内容を送りつけるということもしていた。
そんなことを続けていれば、相手からの返信もなくなっていった。
そんな形で、いくつかの人間関係を壊した。


それに、自分が精神の淵に追い込まれているときは、
なぜか、人と話をしていて、その人の抱える傷についての話になることが多く、
あまり人には話せないことを、さほど深い知己でもない人から話を聞くことがいくつかあった。


だけれども、そんなこんなでおかしな方向に自分が流れかけているときに、
産業カウンセラーをしている親友に
「好奇心で人の心をのぞきこむんじゃない!
 人の話を本当に聞いて心に踏み込んでいくということは軽い気持ちでは決してやってはいけない、
 とても恐ろしいことだってことを知りなさい!」
と一喝されてやっと我に返り、そこで留まることができた。


その後に深く深く反省したのは、自分の中で抱えていることに苦しくなったものを、ひたすらに相手にも渡していくっていうことをしていたのだな、と。
それに、人の荷物を頼まれもしないのに抱えようとしてたんだな、とも。


自分の荷物は自分で背負うしかない。
でも、そこから先で考えるのは、一方でぐるぐるとした思考を自分の中だけ考え続けるというのも、精神衛生上とてもよろしくない。
狭い世界で回る思考はなかなか発展しない。出口のない沼にたまった水が澱んでゆくように、どろどろとしたものになっていく。それを人に話すことで、かすかな出口を見出して澱んだ水が流れ出すってこともある。
じゃあ、人に話して消化する、でも荷物は自分で抱えとく、っていうのはないもんか。


自分の中から外に出て吐き出せる場所っていうのも今は用意されていたりして、
匿名性が守られる非日常的な場所、
プロのカウンセラーだっているし、
ネットで吐き出すってこともできる。


ただ、日常の生活で関係を持つ人々にはどう話していくのか、
どんな線引きで話をしようか。
また、相手の話をどういう態度と立ち位置で聞いていけばいいか、
まだわからないでいる。


悩みや葛藤を抱えるときは、本人もつらいけれども周囲の人もつらい。
自分の荷物は自分で背負わなければいけない。
でも、その重みにつぶされそうな時は、その姿を見せられる周りにいる人たちもつらい。


そう簡単にはいかない悩みにとらわれているときに、
気力の落ち込みにとらわれているときに、
それでも周囲の人たちとの関係性をどう保っていけるのか。


そっくり「こんな荷物なんで」と葛藤をぶつけるのはNG。
「どうせあなたにはわからないよ」と突き放すのも、なんか違う。


「相談にのるから何かあったら言ってね」と言ってくれた人たちに、
どう話してどう聞いていたらよかったのかな、と、
ときどき考えるけれども、いまだその答えは出ないです。

決断の是非は未来の自分に任せてみる

転職を決意した以上は、これから先の自分のキャリアパスってやつをいろいろ考えなければならないんだけど、どーにもメンドくさい。あ〜、考えたくない、考えたくない、っていうのが正直なところ。
「これからの生活を大きく左右する重要事項でおそろかにできんぞ!」っていうのは重々わかっても、一方で直視することにエネルギーを必要とすることも、また事実。

どっかにまだ「これでいいんかなぁ」っていう迷いと捨てきれないものがある。選ぶってことは、同時にいくつかの可能性をあきらめていくってことでもあって、年齢も鑑みて次の職の方向性をどこまで限定するかってところでうろうろしている。


でも何がどう転ぶかなんてことは事前にわかるはずもなく。
人間万時塞翁が馬、だ。
物事の結果の解釈ってやつは、起こった時点で良かった悪かった、と一義的に決定されてしまうものではなくって、

  • その後にさらに何が起こるのか、
  • 自分がどんな反応を返すのか、
  • 結果を持って自分の性質の説明とするのか、
  • 次のアクションへの材料とするのか、
  • 時間のスケールを伸ばしてみたり縮めてみたり、
  • 視点のレベルを上げてみたり下げてみたり、
  • 現象の解釈の全体像の範囲を、個人のレベルから宇宙のレベルまで、広げてみたり縮めてみたり、

・・・
起こった事実と、当てるスポットライトの性質によって、ある事態はいくらでも変化する。


「人は自分が見たいように物事を見る」のならば、
「どんなものを見たい」のか、「どこまで解釈を保留するのか」ってことを、
『どの認識を選ぶのか』ってことを意志を持って選び取ることだってできる。
「これは、今の時点での解釈」って注釈つきで自分の中に収めることだってできる。
いや、選ぶというよりも、きっと「世界と自分の関係をどう解釈するか」っていう個人の思想の根本に何を持っているかで、半無意識に決まっていくのだろう。


ある経験が生まれることは、いいことに見えることでも悪く見えることでも、多様な意味を内包している。
経験にどんな認識をあてはめて、どう反応するか、ということは、
誰もが持つ自由で、
経験を宝とするか、それとも自己を苦しめ続ける刃とするのか、
自己を客観視するという理性を持つ人は誰でも、個々の生きる物語の中に経験をどう位置づけていくか、という1点において自由を持っている。


・・・とか抽象的で高尚っぽく思える机上の空論に逃げてみて、

将来の自分から見て「あの時、こうしてれば・・・」という後悔として、未来の自分を苛ませる要素になってしまうんじゃないか、っていう不安に直面することの億劫さが、
たぶんこのメンドくささの正体の1つか。

でもまぁやってみないことにはどう転ぶかわからんし、
それは、目の前の選択の先の先にいる未来の自分に託すしか他ないんだよな〜。

とかなんとか、考えてみること自体が逃避な気もしないでもなく、
書いてるうちに気力もできたので、まぁ無駄ではない思索ということにしておく。

解釈は受け手に委ねてみる

転職の準備をしていると、
「こんなんで採用してくれるかな〜」
「この経験で、この職種を希望したら何言ってんだこいつは、とか思われたりしないか」
とかとか、いろいろ考えたり。


会社の募集というのは縁とタイミングで、
自分の手持ちの経験と能力と資質と、先方の会社の現況下で求められている人材像とどこまで重なるか、あるいは将来に重ねられる見込みが高いかどうか、って問題であって、
希望の仕事で採用とならなかっとしても「自分という人間だからお断りとなった」というよりは、
お互いのニーズがマッチしませんでしたね、というのが正確なところで。
お断りされたとしても、それはご縁がなかったってことで、
別に自分の人格が否定されるってわけじゃないんだ・・・


とかとか頭での理解があっても、
やっぱりお断りされるっていうのはある種のショックを伴うことで、
そのショックがあっても耐えられるように心の準備は必要だったりする。


どうあがいても、自分以外の人間になるなんてことはできないし、
本音のところを偽ったところで、先方の方向性とこちらが合わなければ入社したところで近い将来にその矛盾に苦しむことになるのだから、よほどの不都合がない限りは手持ちのカードをさらしていく方がよい。
先方が持っている人材の判断基準をあれこれと想像してみるよりは、「いかに誤解なく自分を伝えることができるか」ということに集中するほうがはるかに建設的なように思う。
これまでの職歴で積み重ねたものがあるのだから、自分がどういう志向と問題意識を持って仕事に関わる人間であるかは、これまで経験してきた事実をもって語らせるのが一番だ。


とはいえ、「この人物が自社で働くに値するかどうか」という価値判断は先方に委ねられている。
ある程度自分を曲げてでも先方の持っているであろう基準におもねりたい、自分をこういう人間だと印象づけたいことを耳に気持ちよい無難な抽象的属性にラップして主張したいという誘惑にかられる。
相手に与えたい印象ありきで、その印象を植え付けるにはどうすればいいか、ということを考えたくなる。


そんなところで頭がぐるぐるしていたら、連想したこと2つ。


1つは、Webデザインについてのインタビュー。

 「優しさや親切ってどう表現するんですか」と訊かれるんですが、真剣にものを作って努力したら優しさはそこに生まれるんです。優しさを人に売る人なんているわけがないでしょう。優しさなんていうのは相手が感じることで、こっちが一生懸命努力すればするほど、それを味わってくれる人は優しさとか思いやりとか親切を感じるんじゃないですか。
『63歳の世界的デザイナーが挑む、新しきウェブデザインの世界/CNET Japan』


もう1つは、昔話についての分析。
昔話では、手首を切り落とす、舌を切り落とすといった残酷といって言い描写が淡々として描かれるという。その状況に付随するであろう感情や心理描写は乏しいそうだ。
(※河合隼雄先生の昔話についての分析かなにかで読んだ記憶があるのですが、明確な原典を2007/06現在思い出せず。『昔話の深層』だったか・・・)
なぜなら、その光景に伴う嫌悪感や感情というのは、その情景を想像する読み手の中に生まれるから。(うろ覚え)


2つに共通するのは、
どう解釈するかの自由が受け手にあるということ。
価値判断は受け手に委ねられているということ。


人が物事をどう捉えるのか、どんな印象を持つのか、そのことは操作しようがない。
できるのは事実を持って語らせるということ。
それをどう解釈されるかってことは、一種の賭けだ。
もちろん、誤解されかねない部分については細心の注意をもって言葉を尽くして賭け率を下げることはできるし、経験によって賭け率を下げるための勘所も見えてくるものだが、本質は賭けであることには変わりはない。


できる限り事実と判断を切り分けていくこと、判断を受け手に委ねるということは、ある種の力強さを宿らせる。と思う。(どんな順番でどの切り口でどの事実を並べるかということ自体に一定の印象操作が潜んでくるけれども・・・)


解釈は、受け手に委ねる。
自分の頭を離れないテーマと取り組みを、明確に自覚する。
自分のバックグラウンドと関心と思想を幹として、具体的な経験とそこから得られた知見を枝葉とした、1本の体系として整理する。
他人によどみなく説明できるように用意する。

まずは、そこからか。


※自分の思考を木に例えてみるっていうのは、S嬢さんより拝借。
 このたとえが、今の自分にすごく腑に落ちて、頭に残留中。
 何かの迷いの中にいる人には響くものがあるのでは。

人間の思考というものは、一本の「木」にたとえることができる。

幹、これは、その人の個性や信念。
枝、これは、その時々に応じて広がる思考。
葉、これは、思考に伴って生まれる感情。

枝が広がり、葉を茂らせ、花が咲いて実がなることもある。
でも、時として、広がりすぎた枝葉に、人は「迷子」になる。
『人間の思考/S嬢のPC日記』

「印象や価値判断は相手が感じるに任せる」っていう考え方は、いろんな取り組みの基本的な態度として大事なような気がする。

転職活動を開始

いろいろと思うところあり、本格的な転職活動を開始。
いまの会社は3社目、結局は4年もいたかぁ〜。

転職ってエネルギー使うのに、
いまいちテンションが上がらないのが問題だ。

とりあえず、転職エージェントに連絡。
まずは職務経歴書をまとめあげなければ。
どーいうストーリーでいくかね・・・。