気持ちを吐き出す。でも荷物は自分で背負う・・・ってないもんか

あちこちブログを巡っていて辿り着いたエントリーで、
「荷物を背負う」という感覚に、ピピっときた。

 当事者同士で気持ちを吐き出す、というのは悪いことではないんだと思う。でも、他人に自分の荷物を背負わせちゃいけない。そして自分も他人の荷物を背負っちゃいけない。自分の荷物は自分で背負うしかない。
『他人の荷物は背負えない/明けぬ夜の夢』


「人に話すことで、感情を消化して自分を取り巻く状況を整理して見るってことのお手伝いをしてもらう」
ということとと、「自分の荷物は自分で背負うということ」、2つの境界は、どこにあるんだろう?
とよく考えるし、いまだによく分からない。


2年ほど前にひどいうつ状態に陥ったことがある。
様子がおかしいと感じた周囲の人のうち、何人かが声をかけて話にのってくれた。それは、かつて自分を見失うっていう経験をしたことのある人たちで、「話すことでラクになることがある」っていうことを経験的に知っていたのだろうと思う。


だけれども、話しだすと自分の中にある葛藤まで話すことになり、話は今おかれている状況のことから、
だんだんと自分の性格のことや過去につらかったことや、ともかく「自分でイヤだと思う自分のこと」全般に広がっていった。


そんな話をしていると、相手も「自分も昔こんなことがあって・・・」という話をしてくれたりしていた。


そのうちに、僕が長いうつ状態の後に「躁」な状態にはいり、夜に眠れなくなり、体は疲れているにも関わらず頭が冴えて様々な思考が止まらなくなり、夜中の2時3時に起きだして頭に浮かぶものをひたすらに朝まで文章を打ち続ける、という生活を続けていた。


そうなると、相談に乗ってくれる人にものすごい長文のメールを送りつけていた。
内容は、自分のことのときもあったし、勝手にその人の抱える問題の解決策を考えて、その内容を送りつけるということもしていた。
そんなことを続けていれば、相手からの返信もなくなっていった。
そんな形で、いくつかの人間関係を壊した。


それに、自分が精神の淵に追い込まれているときは、
なぜか、人と話をしていて、その人の抱える傷についての話になることが多く、
あまり人には話せないことを、さほど深い知己でもない人から話を聞くことがいくつかあった。


だけれども、そんなこんなでおかしな方向に自分が流れかけているときに、
産業カウンセラーをしている親友に
「好奇心で人の心をのぞきこむんじゃない!
 人の話を本当に聞いて心に踏み込んでいくということは軽い気持ちでは決してやってはいけない、
 とても恐ろしいことだってことを知りなさい!」
と一喝されてやっと我に返り、そこで留まることができた。


その後に深く深く反省したのは、自分の中で抱えていることに苦しくなったものを、ひたすらに相手にも渡していくっていうことをしていたのだな、と。
それに、人の荷物を頼まれもしないのに抱えようとしてたんだな、とも。


自分の荷物は自分で背負うしかない。
でも、そこから先で考えるのは、一方でぐるぐるとした思考を自分の中だけ考え続けるというのも、精神衛生上とてもよろしくない。
狭い世界で回る思考はなかなか発展しない。出口のない沼にたまった水が澱んでゆくように、どろどろとしたものになっていく。それを人に話すことで、かすかな出口を見出して澱んだ水が流れ出すってこともある。
じゃあ、人に話して消化する、でも荷物は自分で抱えとく、っていうのはないもんか。


自分の中から外に出て吐き出せる場所っていうのも今は用意されていたりして、
匿名性が守られる非日常的な場所、
プロのカウンセラーだっているし、
ネットで吐き出すってこともできる。


ただ、日常の生活で関係を持つ人々にはどう話していくのか、
どんな線引きで話をしようか。
また、相手の話をどういう態度と立ち位置で聞いていけばいいか、
まだわからないでいる。


悩みや葛藤を抱えるときは、本人もつらいけれども周囲の人もつらい。
自分の荷物は自分で背負わなければいけない。
でも、その重みにつぶされそうな時は、その姿を見せられる周りにいる人たちもつらい。


そう簡単にはいかない悩みにとらわれているときに、
気力の落ち込みにとらわれているときに、
それでも周囲の人たちとの関係性をどう保っていけるのか。


そっくり「こんな荷物なんで」と葛藤をぶつけるのはNG。
「どうせあなたにはわからないよ」と突き放すのも、なんか違う。


「相談にのるから何かあったら言ってね」と言ってくれた人たちに、
どう話してどう聞いていたらよかったのかな、と、
ときどき考えるけれども、いまだその答えは出ないです。