決断の是非は未来の自分に任せてみる

転職を決意した以上は、これから先の自分のキャリアパスってやつをいろいろ考えなければならないんだけど、どーにもメンドくさい。あ〜、考えたくない、考えたくない、っていうのが正直なところ。
「これからの生活を大きく左右する重要事項でおそろかにできんぞ!」っていうのは重々わかっても、一方で直視することにエネルギーを必要とすることも、また事実。

どっかにまだ「これでいいんかなぁ」っていう迷いと捨てきれないものがある。選ぶってことは、同時にいくつかの可能性をあきらめていくってことでもあって、年齢も鑑みて次の職の方向性をどこまで限定するかってところでうろうろしている。


でも何がどう転ぶかなんてことは事前にわかるはずもなく。
人間万時塞翁が馬、だ。
物事の結果の解釈ってやつは、起こった時点で良かった悪かった、と一義的に決定されてしまうものではなくって、

  • その後にさらに何が起こるのか、
  • 自分がどんな反応を返すのか、
  • 結果を持って自分の性質の説明とするのか、
  • 次のアクションへの材料とするのか、
  • 時間のスケールを伸ばしてみたり縮めてみたり、
  • 視点のレベルを上げてみたり下げてみたり、
  • 現象の解釈の全体像の範囲を、個人のレベルから宇宙のレベルまで、広げてみたり縮めてみたり、

・・・
起こった事実と、当てるスポットライトの性質によって、ある事態はいくらでも変化する。


「人は自分が見たいように物事を見る」のならば、
「どんなものを見たい」のか、「どこまで解釈を保留するのか」ってことを、
『どの認識を選ぶのか』ってことを意志を持って選び取ることだってできる。
「これは、今の時点での解釈」って注釈つきで自分の中に収めることだってできる。
いや、選ぶというよりも、きっと「世界と自分の関係をどう解釈するか」っていう個人の思想の根本に何を持っているかで、半無意識に決まっていくのだろう。


ある経験が生まれることは、いいことに見えることでも悪く見えることでも、多様な意味を内包している。
経験にどんな認識をあてはめて、どう反応するか、ということは、
誰もが持つ自由で、
経験を宝とするか、それとも自己を苦しめ続ける刃とするのか、
自己を客観視するという理性を持つ人は誰でも、個々の生きる物語の中に経験をどう位置づけていくか、という1点において自由を持っている。


・・・とか抽象的で高尚っぽく思える机上の空論に逃げてみて、

将来の自分から見て「あの時、こうしてれば・・・」という後悔として、未来の自分を苛ませる要素になってしまうんじゃないか、っていう不安に直面することの億劫さが、
たぶんこのメンドくささの正体の1つか。

でもまぁやってみないことにはどう転ぶかわからんし、
それは、目の前の選択の先の先にいる未来の自分に託すしか他ないんだよな〜。

とかなんとか、考えてみること自体が逃避な気もしないでもなく、
書いてるうちに気力もできたので、まぁ無駄ではない思索ということにしておく。