結婚して引っ越し

入籍はまだだけれども、新居に引っ越しして新生活開始。
光でインターネットも開通。

披露宴やパーティはやらない予定で、ひっそりと新生活を始めているけれども、
それでもなにかと手続きや連絡や買い物があれこれ。

一人暮らしが長かっただけに、
まず誰かが待っている家がある(共働きだけど)っていい。

自分の感覚を信じられなくなったら危険信号


『3000人の一人だった…』S嬢はてな
『あなたが「正しい」わけでも「悪い」わけでもなくて』琥珀色の戯言


の2つの記事を読んで、とてもおもしろかった。自分にとって、とても価値ある言葉がいろいろ。

この2つの記事のきっかけとなっている記事、
『俺の何が正しくて、何が至らないのか、教えてください。』深海魚のカタルシス
はプライベートモードで公開となっていて読めていなくて、元々の文脈とは違った読み取りをしているかもしれないのですが、

話題が自分にとってタイムリーで関心あることだったので、いろいろと思い出したり、関連して考えを整理したり。

場の構造の認識と、自分が悪いのではないかというところに陥っていく自分の心境を起こしているものに気づくことだと思う。そこで見えてくるものが答だと思う。
『3000人の一人だった…』S嬢はてな

という1文を、自分の身になぞらえて、そうそうそう、と激しく同意しながら、もやもや考えていたことにピタっとくる言葉をもらえた気がして嬉しくなる。


僕もモラハラな場の構造になかなか気がつかずに、精神的にかなりのところまで追い込まれたクチですが、反省として一つ思うことは「周囲とのコミュニケーションを取れていれば、あそこまで追い込まれなかったかもな」ということ。
まず、正しい認識・・・というか、少なくとも信頼できる人に同意をもらえる認識を持つことが、自分なりの答に辿り着くための一歩だと思う。


僕は精神的にかなりきつかった頃は、頭がぐるぐると回る中でも、「自分の感覚が信じられなくなる」というのがきつかった。とんでもないことをやる人に限って「これが当たり前だ」という顔をしているので「もしかして自分が間違ってる?対処しきれない自分が悪いのか?」と、自分の価値観と判断能力自体を疑うようになってしまう。「やっぱりアレってちょっとおかしいよな」「いや、自分が至らないだけなのかもしれない」と、まず事実認識をどう位置づけようかでぐるぐる回って消耗していたように思う。


一度精神的にオーバーヒートしてから、段々に復帰する過程で大きかったのが、周囲の同僚と話をして、自分の周りの環境の力学構造を確認できたこと。「あ、やっぱりみんなコレはおかしいって思ってたのね」「あの人は一見やり手っぽいけど見かけだけのトンデモ君だってみんなわかってたのね」と、わかった。事実としての認識が定着して、そこで迷うことがなくなった。

それに、「君さ、あんな状況までよくまぁ頑張ってたよね」とか、周囲の同僚からはそれなりに評価してもらっていることがわかって、別にイチ職業人としてまるでダメというわけでもない、という証言を得られて多少は自信が回復した。


自分の感覚が信じられなくなっていく、というのはかなりの危険信号だ、と今は思う。
周囲がおかしいのか、自分がおかしいのか、その2つの認識の天秤で間を行ったり来たりすることは精神を消耗させる。周囲がおかしい、という方に天秤の秤がふれれば、あれもこれもおかしいじゃないかちくしょうと腹が立ってくる。逆に自分がおかしい、となれば自分の性格傾向のおかしなところを際限なく探し始めて、なんだか申し訳ない気分で一杯になる。
さらに、このギャップの存在自体が、自分の感覚に対する信頼を削っていく。
他のことが手につかなくなる。
消耗しきった精神は、いつかちょっとしたことでぽっきりと折れる。


つくづく、一人の視点には限界があると思った。
同じ状況を見て、他の人達はどう見ているのか。そのことを知ることで、まずは「事実の認識」を固めることができる。
僕は自罰的に「自分が悪い、おかしい」という風に認識が歪むムキがあって、その分も含めて他者の視点から常にフィードバックをもらうことはとても大事なものに思う。


そして、ぶれない「事実の認識」があってこそ、その先を考えることができる。
周囲がおかしいのであれば、その対策を考える。最悪でも「にげる」という選択がある。
自分がおかしいのであれば、それを踏まえた上で、まず目の前の状況を乗り切るためにはどんなことができるのか。また、根本を変えていくには何ができるのか。
少なくとも、ぐるぐる回って精神を消耗してぽっきりと折れてしまうことは避けることができる。


特に、その場に組織構造的な歪みがある時には、個人の力は無力だと思う。少なくとも自分の身を守るには周囲とのコミュニケーションは必須だと思う。
愚痴を話したり、本音で話せる人がいるというだけでも、全然違う。


とまぁ、今はそう思っているのですが、でも今の所属会社ではこれ以上やっていく気はなくって、転職活動中。
求められることとやりたいことの方向性にズレが大きいのと、頑張ってみたけど、やはりココの組織文化とか官僚体質な力学構造は自分には水が合わないなぁと実感したので。


だけれども、「両親とか知り合いに「また転職?(次が4社目)また、あんたいい加減なことばっかりやってるよね」とか言われんだろーなー、自分なりに考えてるんだけどねぇ、またチクチク責められるのは気分いいもんじゃないな」と思っていたので、

当時の僕は、「この程度のことも乗り越えられないようじゃ、この先とてもやっていけないはず……」と悩んでいたのですが、実は30余年の僕の人生においては、「この程度のこと」じゃなかったわけです。
『あなたが「正しい」わけでも「悪い」わけでもなくて』琥珀色の戯言

「レベル1でドラゴンに遭ってしまっているのに、勝てないことに悩んでいる」っていうことは、けっして少なくない。もちろん、戦ってみるのも「経験」かもしれませんが、どうしても難しそうなら、そこで同じことを繰り返して煮詰まるより、「にげる」を選んだほうがいいんじゃないかと思うのです。
『あなたが「正しい」わけでも「悪い」わけでもなくて』琥珀色の戯言

を読んで、意を強くした。

うん、そうだよな、事情を知らない外野がなんと言おうと、自分にとっては「この程度」な経験ではなかったし、水が合ってなければ「にげる」のもまったくアリだよな。
切り替えて、次の場所でレベルアップにはげもうじゃないか、とかなり前向きな気分に。


次の職場に移れたら、まず真っ先に「話せる仲間」を探して作ろう、と決意している今です。

選択の心がまえ

久しく連絡を取っていなかった友人と電話で会話。
お互いの近況を話しながら、

「なんか、年が上がってくるといろんな選択していくけど、どんどん可能性が狭まっていくっていうところで、若い頃とは重みというか危機感が違ってくるよね」
という話をしていた。

「でも、可能性が狭まる分、経験が増えていくからそこから何を拾っていけるかが大事なのかもね」
というのが結論らしきもの。

白紙の原稿用紙


「あんたは、まったく理屈っぽくって困ったわ」
というのは耳タコに母親から聞かされるお小言セットの1つ。


さいころにピアノ教室に通っていたのだけれども、
「それって、どうしてそういう弾き方をしなきゃいけないの?誰が決めたの?」
と、先生に食いついていたそうで、まぁ、結果、バイブルにも到達することなくピアノは挫折となって、母親を悲しませたようだ。
いまだに聞かされるエピソードの1つ。


一方で、僕の方とは言えば、あまりそういった「理屈っぽい」具体的な問答の記憶はなく、
覚えているのは、
「生意気だ」
と、よく言われていて、その度に悲しい気持ちになった記憶。


「なんでだろう?」と疑問に思ったこと、それに「そっかこれはこういうことなのか!」と大きな発見を見つけたこと、そういうことを話すたびに、「生意気だ」と怒鳴られて非難されたこと。


なんで、どうして「生意気」と言われなければいけないのだろう?僕は、心に浮かんだ疑問や、すごい発見を聞いて欲しかっただけなのに!
うつむいて、黙り込むしかなかった。


そのうちに、そういったことは言わなくなった。
だんだんに、あまり物事を考えないようになったように思う。


学校の勉強だって、自分の言葉なんていらない。
法則を覚えて、それをひたすらに当てはめればいい。
別に、なにか発見するなんて必要ない。
ルール。はい、覚えました。
問題。はい、このルールで解けました。
問題。えーと、それはまだルールを教えてもらってないからできません。


とはいえ、多分、何も感じていなかったわけであるはずもなく、
そのうち1人でゲームにどっぷりと漬かるようになっていった。
今思えば、その世界に入っているうちには、頭を麻痺させられるから。
その中にいる間は、なにも考えなくていい。つらいことも感じない。
そうやって、「嵐」が過ぎるまで待てばいい。


そのうち、小学校で、毎日、日記を書いて提出する、先生はコメントを入れて返す、というのが宿題になっていた時期があった。
何を書いていいのか、本当によくわからなかった。
今から考えるとウソみたいだけれども、ほんっとに、わからなかった。別に書きたいことなんて何も浮かばなかった。
なんでこんなことをしなければいけないのか、意味もよくわからなかった。朝起きて学校に行って晩御飯を食べて。毎日の行動なんて決まりきっているじゃないか、人のそんなことを読んだって何がおもしろいんだ。

しょうがないので、毎日「ドラゴンクエストが発売されるまであとXX日です。楽しみです。」というカウントダウンを延々と毎日書いて「XX君は本当にゲームが好きなのですね」との先生からのコメント。*1


それから、はっきり覚えているのは、小学生の作文の授業。
1時間くらいの間、うんうん悩んでほんとに1行も書けなかったのをはっきり覚えている。
それがまた書けない自分自体に、さらにショックで。


「なんで文章書けないんだろ、そんなに自分って空っぽな人間なんだろうか」って、教室で真っ白な原稿用紙を見つめて、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

*1:今思えば、先生も困っただろうなぁ・・・

『ふあんていもよい一部』

職務経歴をまとめていたりすると、いやでも精神科に通っていた頃の一番つらかった時期を思い出す。


長いうつ状態の後の、制御しきれないエネルギーが自分の中に勝手に入ってくる感覚。
頭の中がすさまじい勢いで考えが止まらなくなる。
もしかすると自分が壊れつつあるのかもしれないと恐ろしくなる。
もう社会の中で生きていくとかは無理なんじゃないだろうかと思う。
やってみたいこと、いろいろあったんだけどなぁ・・・。と悲しくなる。


担当業務を全てストップさせ、だいぶ落ち着いた後も、発作的にエネルギーが爆発するように流れ込んできて制御できなくなることが度々あった。
友人にSOSの電話をする。芸術系なお仕事をするその人は、「そんなエネルギーが出てくるなんて、羨ましかったりするんだけどねぇ」という。
僕は反射的に「こんなエネルギーをくれなんて誰かに頼んだ覚えなんてない。こんなエネルギー要らない。」と泣きそうになりながら訴えた。


・・・そんなことを思い出していると、またいつかあの状態に入ってしまうときが来るんだろうか、
ほんとうにこの希望職種でこれから先やっていけるんだろうか、
漠然とした不安に押しつぶされそうになる。


そんな折、昨日、職場の友達からメールが来て「ライブがあるから行かないか」と。
たぶん知人もけっこう来ている。

「あんまりたくさんの人に会いたい気分じゃないから、やめとく」とメール返信。

チャットが来た。
【彼女】「だいじょうぶ、なんかあった?」と。

【僕】「いや、なんかあったとかじゃないんだけどさ・・・」と説明に困る。


気分が落ちてるときは、人を避ける。
明るく振舞うのに疲れる。普通にできないことにみじめさを感じる。
ほんとは、一人はやだ。さみしい。つまらん。
でも、めんどくさい人間になってる自分に人をつき合わせてはいけない。

うまく伝えられない。ちょっと書いてみては消したり。


【彼女】「なんか、推敲してるでしょ?説明しにくい?」

・・・するどいな、アナタ。


【彼女】「いまからそっちに行こうか?」

その気遣いが身に染みて嬉しい。
その気遣いの暖かさにちょっと温まりたい・・・。
でも、こんなめんどくさい人間につき合わせてはいけない。
重たいものを渡してはいけない。
だいじょうぶ、って言っとけ。たいしたことないって。
ちょっとした葛藤。


【彼女】「じゃ、今から行くから」
来た。
外で昼を食べながらちょっと話す。
彼女は、僕がカウンセリングや精神科に通っていたことを知っている。


【僕】「落ちてるときって、めんどくさい人間になってるから、それに人をつき合わせて疲れさせたくなくって」
【彼女】「いや、それ、アナタ自身が疲れるからいやなんじゃないの?」

ぐさ。そう、多分、ほんとは、人のためと言いつつ自分のためなのだ。自分が疲れるからイヤだから。


自分の中での過剰な自意識との調整に疲れるから。
気分が落ちてると、自分がどうしようもなく思えてしょうがない。人の意図を読み取るアンテナの感度が下がる。自分が悪く思われていると捉える方向にゆがむ。挙動不審になる。会話で声が小さくなる。「え?」と聞き返される。いや、これは「はい?何言ってんだ?」っていう否定じゃない、単なる聞き返しだ。
そんなめんどくさい問答を自分の中でやらなければいけないこと自体にみじめになる。


返しを期待されるからかいが飛んでくる。
沈黙は、いかん。気のない相槌も、いかん。気の利いた返し・・・浮かばん。
これじゃ挙動不審だ。うぅーーんと・・・。


だいじょうぶ?心配をされる。。
ふむ、あぁ、ダメだ、この人にはこの感覚はわからない。
相手の想定範囲に合わせてあたりさわりないことを言う。
アドバイスを受ける。ふむふむ、と相槌。
それか、体調不良を装う。
何をやってるんだか。
そんなことをしているから、疲れる。
自分の荒唐無稽さに落ち込む。


昼食は、それ以上あまり突っ込んだ話をすることなく、とりとめもないことを話して終わった。
彼女は、誘い水はかけてくるが、こちらが話したくなさそうなことを察すれば、やんわりと次の話題に入っていく。

面と向かっては言いにくかったので、後でチャットで
「いやさ、精神科に通ってた頃のこととか、思い出しちゃってね、気分が上がらないのだよ」と伝えておく。



「あなたのふあんていなところは、きみをつくっているよい一部だとして、認識してます。ので安心していいよ。」


その一言がどれだけ嬉しい一言か。
君は「なんもしてないよー」と言うけれど、
僕は「おぉ、さんくす」と軽く流してしまったけど、
ほんとはモニタのこちら側でウルウルとしていたのだよ。

ありがとう。

世のデザインする人々を勝手に応援しています


『愛と友情のブログスフィア罵倒ダメ☆ゼッタイ×ナンデスッテ・マップ』うどんこ日記

を読んで、「おぉ、これすごいすごい」とブックマーク。


見事な図解に感動したんです。
それに、僕の勝手な解釈かもしれませんが、ボルテージが上がっている状況を考慮してのうまいトーンの取り方と言葉の選び方に。


僕は、機能的に美しいと感じるものにうっとりしてしまうタチで、その延長でか、図解大好きっ子です。複雑な構造をもつものを、うまく図解におとしこめるとこのうえない快感を覚えます。
PowerPointVisioで図を作り始めると燃えます。構成にこだわり、統一感のある色づかいと線の表現にこだわり、文字のフォントにこだわり、そして、「もう十分すぎるから早く出せ」と怒られます。完成度よりも、報連相のスピードが求められるシーンではストレスたまりまくりです。


そんなワタクシですので、デザインをなりわいとする人々に尊敬と畏敬を持っています。自分にうっとりとしあわせな気分をもたらしてくれるものを作り出していく人々ってすごい、と単純に思うのです。自分ができないことへのコンプレックスの裏返しなのでもあるのでしょうが。


そして、そんな図解大好きの延長として、ファシリテーショングラフィック*1という技術にも興味があります。
「議論の対象と構造を「見える化」することで、参加者の認識を合わせ議論を活性化する」というものです。


僕は『愛と友情のブログスフィア罵倒ダメ☆ゼッタイ×ナンデスッテ・マップ』の記事を読んで、これは見事な「ファシリテーショングラフィック」のお手本じゃないか、と思ったのです。


以前の所属部署ではデザイナーさんと一緒に仕事することが多く、よく議事録をとってもらっていました。その時によく彼らに言っていたのが、
「議事録をとってるだけじゃもったいないよ。もっとその技術と才能をいろんなシーンで生かしていけばいいのに!」ということでした。


彼らはスケッチブックなどに議事録をとっていくのですが、とても完成度が高い。まるではじめからそのページに構成が決まっていたかのように、内容を書きとめていき、会議が終わると「なるほどねー」と皆が納得する見事な図解ができあがっていました。
全体像が複雑で、説明する本人もはっきりとはわかっていないようなものでも、話を聞きながらデザイナーにより作成された議事録内の図解がスッキリと事象を説明してくれていて、それがそのまま設計書に起こされたりといったこともあったり。


会議をリードしていく立場になると「なかなかに難しい作業だこりゃ」ということを痛感していました。論点の認識がずれていると不毛な空中戦がくりひろげられたり、議論がいつのまにか「人vs人」の対立構造になってしまったり。


そこで、グラフィックです。
議論の構造をリアルタイムに図式化して皆の前に示すことで、論点のズレを防ぎ、参加者の認識を一致させる。「私vsあなた」の対立構造でなく、「私達vs問題」という建設的な議論の方向に向かわせる。


これは、なにも議論に限ったことではなく、「みんなで何か1つのものに向かっていく」という文脈の中では強力な力を持つと思うのです。
それぞれのバックグラウンドと責任範囲と意図と利害関係が入り混じる中でどう皆のエネルギーを1つに収束させていくかというのは一筋縄ではいかなくて、まったく四苦八苦七転八倒です。


その中で、イメージを直感的に理解できるものであるとか、キャッチなコピーがあったりであるとか、
1枚の絵、ひとつのフレーズが、
関係各者に劇的な「気づき」をもたらして混沌とした状況を打開する突破口になるってことがあります。
それをプロジェクトに運び込んでくれるデザイナーさんには、「あくまで依頼の範囲で動く」のではなく、中核メンバとして関わって欲しいと思っていました。


『デザインするという言葉の語源を調べてみると、それはラテン語で「整理する」、「まとめる」という意味を持っている。デザインをするとはすなわち、バラバラな条件をひとつの方向にまとめることなのだ』*2
とは、建築家の宮脇檀さんの言ですが、デザインというものに才能を持つ人々の活躍するフィールドは広いと考えていて、「言われたものを作る」だけでなく、もっと広いフィールドと裁量で仕事に関わってもらえると、とても助かるんだけどなぁ、と常々思っていました。


というのは、僕が以前にいた部署では、デザイナーに対する評価が低すぎるというのに歯噛みしていたのです。『デザイナーの仕事は、最後に見た目よくお化粧してくれればいい』程度の認識でいつも歯がゆく思っていたのでした。デザイナーをプロジェクトに早期から関わってもらうことの意義とコストを認めてもらうことに苦労しました。


もっとデザイナーが評価されて裁量もって動けるように仕事の流れを変えてやろう、というのがひそかな僕の目標だったのですが、残念ながら力至らずにそこまでは行けませんでした。
大きな組織改変があり、その後デザイナーの人たちは、もっと評価されて裁量が大きい環境で仕事できるようになっているようなので、めでたしめでたしなのです、が、「こんなんやろうぜ!と語っていたものを、一緒に作りたかったなぁ」という一抹の寂しさもありました。


・・・などなど、個人的にいろいろな思い入れがあったので、
僕は著者のnitinoさんを知っているわけではないし、ネット上での交流したこともなく、ましてやnitinoさんは僕の知っているデザイナーさんではなく、まったくの過大な投影でしかないということは頭ではわかっちゃいるのですが、



『ほら見たことか!
 デザイナーさんの技術と才能が生かされるのはいろんなところにあるんだぞコノヤロウ!』


と、どこの誰やらもわからない誰かに対して示すことができたような気がして、
一人パソコンの前で嬉しくなって興奮していたのでした。

『他人の荷物は背負えない』関連読書メモ追記

関連リンク:『気持ちを吐き出す。でも荷物は自分で背負う・・・ってないもんか』

 悩める人のためにつくしたいと思う人は、先ず自問しなければならない。「先ず救われるべき人は、他人なのか、それとも自分なのか」と。
『コンプレックス』p.61 河合隼雄著/岩波書店

 人は自分の愛のたらなさを、仕事を通して補おうとするのである。愛されたことのない人は、他人に必要と思われる職業に就き、自分の必要感を満足させ、同時に、自分の自己にたいする評価まで、高めようとするわけである。
 (中略)
 こういう自薦助っ人が、人の助けとなることはない。かれを必要としている人にたいするかれの必要感のほうが、その人のかんじているかれへの必要度よりも大きいからである。かれは、人を助けようとすればするほど、自分にこだわる。それゆえ、かれは、なおさら、もっと他人を必要とするにいたるからである。
『自分自身を愛する』p.48ワルター・トロビッシュ著/すぐ書房