掃除洗濯整理整頓も、表現のこやしとなる?!

掃除洗濯整理整頓をすると、
ココロがしっかりして落ち着いて頭も整理されるのは、
なぜなんでしょうか。


なんとなく、経験則としてあるけど、なんでなんだろな。
なんて思ってたら、「ほぼ日刊イトイ新聞」で山田ズーニーさんが既に書いてました。

■おとなの小論文:Lesson303「表現の体力」
http://www.1101.com/essay/2006-06-07.html

■おとなの小論文:Lesson306「表現の体力2」
http://www.1101.com/essay/2006-06-28.html

彼女が実際に、アウトプットのクリエイティブが落ちている時に、その体力を取り戻すのに有効だったのは、掃除と運動だった、という話。


そこから、なぜそこにつながりがあるかに話が進むわけですが、


結論だけいえば、
「楽な方ではなく、美しい方へ向かうココロの習慣性」
こそがクリエイティブには大事で、


習慣的な掃除や運動は、カラダを実際に動かすっていう現実の行動を媒介にしながら、ココロに対してそこに向かう慣性をつけてくれる、具体的な一つのやり方に過ぎない、と。


でも、自分が深いクリエイティブな作業をしている人なわけでもないので、デザイナーさんたちの実感としてどんなもんか聞いてみたいとことでもあります。


こーいう視点を持っておくと、
けっこう面倒になりがちな掃除洗濯炊事整理整頓も、
また違った印象で取り組めるような気がしてきますねー。

 茶道のルールの細かさや厳しさには
 意味があるなと思いました。


 そのルールがなければ、
 自分の動作は意識することもなく、
 普段の自分のクセのまま、楽な方に、
 どんどん流れていってしまうでしょう。


 そのルール(型)があるおかげで、
 無意識だった自分の体の動きを意識できて、
 「楽な方」ではなく「美しい方」の
 動きを選択することができる。

 創作とは、一発アイデアに寄りかかる、
 というよりは、
 あたりまえを積み上げた果てに生まれ出でる、
 あの別空間のようなものかもしれない。

 掃除でも、運動でも、ほかのものでも実はよかった。
 ラクな方へと流されず、
 美しいと感じる方へ、耳を傾け、敏感になり、
 そこに向かう
 コツコツとした現実の習慣性を養えるなら何でも。

 表現の体力は、ある日、突然落ちるのではない。
 時間をかけて、じっくりと、無意識に、
 より短絡に、しぼられていった回路だから
 解くのにもコツコツ、時間が、かかる。


 落ちてきたときと同じくらいの日数で、
 同じくらいの目に見えなさで、
 自分にとっての当たり前を積み上げた果てに、
 いい風がきはじめたら、
 自分が本来生きたかった方向性に向かっているし、
 向かう習慣性もできつつあるということだ。