「今を享受する」「時間を味方につける」というスキル

「なんで、こうなってるの?なんとかなんないわけ?」
多少、社会のことも自分のことも理性的に見えてくるようになったハタチ前後、頭の中はそんな疑問で一杯だった。
わが国ニッポンの政治経済、息苦しい教育制度、アジア・アフリカの貧困、etc。
メディアで流されるニュース、識者のコメント、そしてまたメディア自体のうさんくささ。
自分の理想の姿、そこにはるかに遠い自分の現実。


ナットクがいかない、思い通りにならないことにやきもきしてイライラする。
どうすればそれをパッと変えられるかの方法をいろいろと考えてみる。


でもしかし、いつだって、現実をそのままに享受するのが第一歩でしかありえない。
そういう形になっている、ということには必ずなにかの理由がある。
そういう形によって、メリットや安心を享受している(またはしていた)何かが存在
したりもする。変化は、そういう安定の状況を一度壊すことでもある。


そこまで視点を広げることができれば、もやもやもだいぶ軽減する。
そうしたもやもやする時間は、けっこうもったいない。
精神衛生上もたいへんよろしくない。


その後だって、いつだってできることは、自分ができる範囲のことに取り組んでいくしかない。
世の中からみたら誰だってたいしたもんじゃない。


社会は変わっていくし、自分だって変わるし、人だって変わっていく。
諸行無常、すべては変わらないようでいて、いつもゆっくりとでも変わっていく。
ふと振り返ってみたときに気がつけば変わっている、というくらいのものが普通だと思っていたほうがいい。


ものごとはそう劇的には変わらない。
理想の灯をかかげつつ、現実の遅い歩みを1歩1歩踏みしめていく。
短距離走ではなく、長距離走
1直線に見張らせるトラックコースでなく、アバウトな地図を持ったオリエンテーリング
常に右上がりに上がっていくのではなく、3歩進んで2歩下がって、波を描きながら少しずつ上がっていく。
一見、後退に見えても、それは次の前進に必要な踊り場だったりもする。


見つめるべき理想の灯台の火を見出だすことは大事。
そこに届かないことにやきもきし、枠を広げよう、前に進もうという原動力になってくれる。
でも、それだけではいつか必ず息切れする。
息切れすること自体に、またさらに落胆したり。


今いる場所を享受して、
今進んだ一歩を静かに喜ぶことができることは、
大事な生きる技術の1つのように思う。


鋭敏にはりつめず、のんびり穏やかな面持ちでもって、
日常を積み重ねていけることを、今は願ったりする。