誤解の周辺

友人の、非公開日記を読んで思うところアリ、話の枕としてテーマだけ拝借。

  • 言説を表明した時点で、それは自分のものではない。
  • それからは、受け手である解釈者には大きな権限が与えられることになる。
  • 解釈者に、自分が意図したとおりの「正しい解釈」を強要するのはナンセンス。


ということで、自分の中で寝かし中のテーマに反応するものがあり、そろそろ出せるかやってみる。
元々のきっかけは、最近読んでフムフムと思ったエントリ。

『誤解から始まるコミュニケーション/ekken』

ふむふむという点を引っ張り出すと、

  • 誤読されない工夫をしよう

不特定多数に対する文章であれば、誤読されないようにまず配慮しておくべき。

  • 誤読の責任を相手に求めない

「感性の違いから生じた誤読を、相手の読解力のせいにするよりも、自分の文章力の至らなさと思うようにすると、次回からのエントリでは、より読みやすい文章を書けるようになるかもしれません。(※原文まま)」


ekkenさんのエントリの多くからは、「自分の立ち位置」というものを考える上で、とてもいい出発点をもらっている。
ブログを書くようになると、それを受ける人々への自分の立ち位置をこれまで以上に整理して意識せざるを得なくなり、もやもやと寝かせてみていた。


んで、今の自分での捉え方。


誤解を放っておくと自分の不利益になるなら、なんらかの対処が必要な局面というのはあると思う。
個人の人間性とか利害関係からはデタッチされた議論がされるということが明示暗黙を問わずに合意されている場は別として。(←もっと簡単に書けないかな・・・)


なんでかっていったら、誤読を道具として使ってくる手合いというのがいたりするから。
何らかの利益とか隠された意図がまずありきで、そこに導くために都合のいい解釈をする人とか、けっこういたりするから。ともかく都合のいい物語がほしいだけっていう。
そういうタイプに傍若無人な解釈を許容する必要はまったくないと感じる。


あとは、誤解する本人に対してでなく、解釈を巡る話を見ているギャラリーというか周囲に対して「この人の解釈は自分の意図とは違っていると私は思っている」ということを表明しておくことは意味があるように思う。


表明者vs解釈者という1対1の対立構造でなくって、アメリカの陪審員制度のある裁判のような、傍観者がいるモデルを頭に持っておくことで、感情のヒートアップを大分に抑えることができるのではないか、と。
双方の、個々の主張を闘わせつつも、目の前の相手でなく、最終的には第三者、いわば「陪審員」達の判断に任せるつもりでいるような「立ち位置」ってけっこう大事かも、と思うこのごろ。かなりパブリックでギャラリーも多いような状況でなら、なおさらに。


ただ、相手をねじふせる必要はなく、あくまで最終判断というのは双方の論を聞いた周囲のギャラリーの良識と判断に委ねてそれは受け入れる、っていう態度が必要だとは思う。


・・・という、けっこう自分の中でまだ新しく馴染みきらない考え方があったので、友人の日記を土台にして出してみたり。